クリーネストライン


エミリーン・ワン、ユタ州の南パイユート族とプエブロ族の土地にて。Photo : Drew Smith
エミリーン・ワン、ユタ州の南パイユート族とプエブロ族の土地にて。Photo : Drew Smith

軽やかに歩こう

By エミリーン・ワン   |   2021/07/30 2021年7月30日

移民を両親に持ち、LGBTQIA+を自認するアジア系アメリカ人の女性ロッククライマーとして、この土地で自分をよそ者のように感じることがある。私がレクリエーションの特権を得たこの空間は、私のものではないのだから、しかるべく扱わなければと感じる。

社会的マイノリティである私は、特に野外空間において、物や場所を自分が見つけたときよりも良い状態にするという行動をとる。それは私の幼少期や人生経験に根差している。しかし、美しい野外空間に対しこのような気持ちを持っていても、クライミングの目的地へ移動する道中では、身の安全についての消せない不安が肩に伸し掛かる。

私の母は自分の生い立ちを話すことが好きで、両親が共産主義時代の中国からどうやって逃げてきたかを振り返っていた。異国の地へ移住しその土地に馴染むことに苦労したという母の話は、幼い心に深く刻まれた。

子供の頃、彼女は中学校のクラスや近所で唯一の中国人学生だった。
英語はほとんど話すことはできず、地域に馴染むためにできることは何でもしたし、その会話にある種の虚しさを覚えることもしばしばあったという。しかし、彼女は常に最善の行動をすることの大切さを学び、その考え方は私や姉妹に受け継がれている。それは人生のあらゆる局面や行動の瞬間に、一定水準の美徳を守るということだ。

学校で、友だちの家で、チームスポーツ、職場、アウトドアでもそうだった。トラブルを避け、他人に口出しをしないことが自然な習慣になり、クライミングはずっと、私がそれを忠実に実践するのに役立っている。しかし、アウトドア・レクリエーションを楽しむ人々が次第に増加するのを見て、自分もまた、自身がレクリエーションをする場所への人的影響の問題に加担しているのではないかと気にするようになった。しかも、アジア系アメリカ人の女性として、外出するたびに自分自身を潜在的な危険にさらしているのではないかとも。

クライミングに最適な肌寒い週末に、パートナーのジョアンと共に車でユタ州セントジョージへと向かった。そこはクライミングで最も心踊る場所。私がホームとする場所。自然の中に身をおいていると、時間が経つことを忘れてしまう。南ユタは自分を取り戻し内省する場所。同時に、常に身を引き締め、周囲への警戒を怠らないようにしなければと感じる場所でもある。

州内のやや保守的な地域を通過する間、私のように明らかなマイノリティが、どうすれば溶け込めるのだろうかと絶えず考える。浴びせられる視線から、パートナーや私が目立っているのは明白だ。私が属する集団や人々に対する極端な人種差別や暴力をめぐる最近の事件をきっかけに、鋭い警戒心が生まれ、それは深く致命的な不安となった。それまで野外は常に心地よい場所だったのに、今は慣れた場所でも自分やパートナーの身を案じてしまう。

ふたりはクライミングと人生のパートナー。ジョアンのビレイで難所に取り付くエミリーン。Photo : Drew Smith
ふたりはクライミングと人生のパートナー。ジョアンのビレイで難所に取り付くエミリーン。Photo : Drew Smith
登りきって、絶景にハグ。Photo : Drew Smith
登りきって、絶景にハグ。Photo : Drew Smith

人知れず目標に向けて努力することはアジアの大陸的な血筋のような気がするけど、草の根レベルで人々を集めることには効果的でないことも分かってきた。愛する土地を守ることが何よりも重要であるならば、黙々とひとりで取り組むのは論外だ。構造的な不正、暴力行為、アジア系アメリカ人女性である私に恐怖を感じさせる出来事は無数にあるけれど、目下の最優先事項がこの地の環境保護であるならば、今こそ立ち上がるべき時だ。

ユタ州の多様な景観や自然の豊かさは、ここがアウトドア・レクリエーションの目的地として、人気を博している最大の理由だ。しかし、その人気ゆえに、これらの土地の許容能力は、常に切迫しているのも事実だ。

よく目にする例として、クライマーが登山道を近道したり、あるいは単に自然保護区の明確な標識を無視したりすることで、砂漠の土壌の土が劣化していることが挙げられる。クライミング人口の増加によって意識の低い新たな利用者グループが訪れるようになった。例えば、土の表面を覆う有機体の大部分を占める繊細なシアノバクテリア(藍藻)は、砂漠を支える基本的な要素だ。影響を受けた土壌が元の状態に戻るのには50年かかるか、あるいは永遠に完全回復しない場合もある。

クライマーが、レクリエーションにおける適切な行動規範を知っていながら、あからさまに無視している状況に遭遇したことがある。用を足した後に自分の後始末をしない人々も見た。私は心で叫ぶが、声に出せない。正しいことのために立ち上がれと心は言うのに、なぜ言葉を飲み込み、踏みとどまるってしまうのだろう。幼少期や文化的背景を思い出し、はたして白人のシスジェンダー(心の性と体の性が一致している人々)が、我々の土地のために立ち上がるマイノリティにどう反応するだろうかと自問する。すると、仲間が経験し続けているトラウマが忍び寄り、反感への恐れが心を曇らせる。私は静観し、対立を避けるために黙ってしまう。

ジョアンとその日の最初のクライミング目的地に到着した時、私は景色に感動し、10分間はその景色を眺めていた。赤みを帯びた美しい不透明な砂岩がミニチュアの円形劇場のように眼前にそびえていたのだ。かすかな太陽の光がゴツゴツとした岩肌を照らす。そのくつろいだ雰囲気の中で、私たちはハーネスを装着し、もう一方の端を固定した。

「バナナダンス」への再挑戦の準備をしていると、美しいラインを見る時の張り詰めた高揚感が一気に我々を包み込んだ。最初の足場に両足をかけると、一連のシークエンスは明らかだった。ジャグをつかみ、次に両手を交差し、左のシェルフへ。そして右足を蹴り上げ、その同じシェルフにかかとをのせる。そして次の動作へ。動きは単純だ。

ふたりして感謝の念と高揚感を感じながらも、私は依然として、この辺りの土地を軽視するクライマーの痕跡を見ていた。セントジョージは、冬になると全米からクライマーが集うが、特に目に付くのは、明らかに禁止されている岩場付近でキャンプを張る人々だ。

大好きなこの場所で、将来クライマーの立ち入りが制限されるかもしれないという予感がする。クライミングは主流のアクティビティになりつつあるが、登る場所の管理・保護についての重要な教育が追い付いていない。これは育むべき重要な倫理観だ。人はみな、さまざまな理由で登る訳だが、このスポーツに夢中になっている人の大半は、クライミングが与えてくれるものがあるからこそ、登るのだと思う。

ユタ州セントジョージ付近の嵐と虹。Photo : Drew Smith
ユタ州セントジョージ付近の嵐と虹。Photo : Drew Smith
原野を大切にする重要性を再認し、家路に付く。Photo : Drew Smith
原野を大切にする重要性を再認し、家路に付く。Photo : Drew Smith

移民の娘として、LGBTQIA+の一員として、アウトドア界のマイノリティとして、そして環境を深く気にかける者として、すぐに変化が起きないことは分かっている。クライミングの慣習に対して教育し回復させ行動を起こすことは、初めてクライミングをする人に対してこのスポーツの奥深さやすばらしさに目覚めさせる時のようなプロセスに似ている。真の進化とはこのようにもたらされる。みなに愛されるこの場所のために望む変化を、この目で見とどけ、手を貸すことは、他者に力を与える一端となる。それは家族や友だちが、私のアイデンティティを長所と個性の源と見なし、それを認め、受け入れてくれた時のかけがえのない感情のように力強い。

アジア系アメリカ人一世の家庭で育ったので、子供の養育とは集団でなければならないことを知っているが、土地の管理や手入れもまさしく同じはずだ。人種間の暴力や不公平をめぐり、この社会で続いている理解しがたい出来事を思うと、アウトドアは同質の集団のみを対象とする環境であってはいけない。願わくは、私たちみなが、アウトドアへの情熱を維持するために行動を正し、声が届かない人々のために立ち上がり、お互いに責任を持って行動する方法を見つけることだ。言い換えるなら、私たちは、地域社会へ参加し、クライミングエリアの保護のため積極的に取り組む組織を支援し、不正行為を見かけたらその場所のために立ち上がる必要がある。

クライミングは、私に自然や人と親密に関わる無限の機会を与えてくれたし、自己愛や発見が何であるかも教えてくれる。だから、私はずっとクライミングを愛するだろう。訪れた時よりも良い状態にして立ち去り、愛してやまない大好きな場所をより豊かにしよう。

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