写真:鈴木 岳美
写真:鈴木 岳美

幾星霜

By 倉上 慶大   |   2021/07/15 2021年7月15日

雪の降る亜熱帯の島、屋久島。周囲130キロメートルほどのその島は別名・洋上アルプスとも呼ばれ、海抜0メートルから一気にせり出た約1,900メートル級の高山を有し、島の一部は世界遺産にも登録されている。
地理に詳しい方もそうでない方も、樹齢7,200年・縄文杉、映画『もののけ姫』のモチーフの森というキャッチフレーズを一度は耳にしたことがあるだろう。
そんな自然豊かな屋久島にこの春、横山“ジャンボ”勝丘と私は向かった。
もちろん、旅に出る目的はただ1つ。クライミングだ。

屋久島でのクライミングというと、本富岳などでのマルチピッチクライミングや近年では小山田 大氏によるボルダリングエリアの開拓が有名だが、今回、我々が目的としたのは海岸沿いでのトラッドルートとボルダーの開拓だった。

屋久島の海岸沿いには、地殻変動によって迫り上がった岩壁が並ぶ。 写真:鈴木 岳美
屋久島の海岸沿いには、地殻変動によって迫り上がった岩壁が並ぶ。 写真:鈴木 岳美

ところで、私は時折、未登の岩壁にルートを開拓・初登するということに対して、達成感半分と喪失感半分、といったような気持ちになる時がある。
これを素晴らしく夢のような時を過ごした後にやってくる虚無感、と表現するには少し大袈裟かもしれないが、実際問題クライマーにとってこれは大変なことで、「このままずっとこの場所にある岩たちを登り続けられればいいのに」と思ってしまう白昼夢のような体験がクライミングによってもたらされることがある。

これをノスタルジックというのか、センチメンタルというのか、それとも、ある種のロマンと美化するのか、といった分析は野暮ったくもあるので敢えて言及しないが、つまり私はその夢のような時間の体験と記憶が、単なる「消費されるもの」に貶められてしまうことを、いつからか恐れるようになった。

クライミングには様々な魅力と側面があって、それは主に、冒険性と芸術性、そしてゲーム性といったものがそれにあたると私は思う。
“クライマー“というものはその名の通り、山や岩壁という対象を登り頂上を目指す人種だが、その目的の達成によって得られるものが単なるゲーム的な達成感に限られてしまうならば、果たしてクライミングはそんなにも薄っぺらなものなのだろうか。
達成感を得ることが単なる消費行動だとか悪いことだとか言いたいわけではない。しかし、クライミングを自然との対話の手段として捉え、自然の中に身を置き、時には自然の脅威を感じながらも自由な発想で自身の描くラインを登るという活動の中で、冒険性、芸術性、ゲーム性という、この三要素のバランスを保ちながらクライミングと向き合うということは、人間が自然の中で生きる一個種に過ぎないという現実を再確認する機会、そして、自然は消費するものではなく共生していく存在であるものなのだという、「理性的な何か」を育む貴重な時間と体験だと私は思う。

人間が言葉を取得したように、(動物もそうかもしれないが)人間は本能だけでは生きていけないものだ。だからこそ、現代において人は積極的にその「理性的な何か」を育むことが地球上の一個種としてより重要なエッセンスとなるのではないかと思う。
少し狂信的な思考に思われるかもしれないが、現代ではジャンル分けされた数あるクライミングの中でも、やはり私は自然の摂理に自らを適応させて行うボルダリングやトラッドクライミングが、その「理性的な何か」を育むのに最も適したクライミングであると信じてやまない。
そして、この雄大で原生の自然が残る屋久島でもそんなクライミングを実行したいと思った。自然に対する少しのおこがましさと畏敬を感じながら。

「弎岳」(5.13d/14a R)を初登する倉上 慶大。 写真:佐藤 正純
「弎岳」(5.13d/14a R)を初登する倉上 慶大。 写真:佐藤 正純
雨の日は新たなラインを求めて島中を歩き回る。 写真:鈴木 岳美
雨の日は新たなラインを求めて島中を歩き回る。 写真:鈴木 岳美

サー
屋久のお岳をおろかにゃ思うなよ 金のな

蔵よりゃ なお宝な

屋久のお岳のシャクナゲ花よな 年中な

蕾で 一度咲すな

・・・

この唄は屋久島に古くから伝わる「まつばんだ」という古謡で、 “屋久島の山を疎かにしてはいけないよ。蔵の金よりも宝物だからな。”といったような屋久島の自然に対する深い畏敬の念が歌詞に込められている。
私は民謡の専門家ではないので古謡や民謡に関しての詳しい話はできないが、「まつばんだ」のように一つの唄という芸術によって、そこに込められた想いと意思が受け継がれ育まれる伝承の文化に、純粋な美しさと尊さを想うのだ。
先述したクライミングの芸術性という一側面に付随して、私はクライミングにもそういった伝承としての価値があると思っている。

表現するということは必ずしも他者への伝達を目的とするものではないが、我々が屋久島で行ったトラッドクライミングも、古謡「まつばんだ」のように永く語り(登り)継がれていってもらえたなら、それは単なる“消費されるもの”以上の何かになり得るのかもしれない。
我々が屋久島で行ったクライミングの詳細は、今はまだ非公開エリアであるのと、地元のローカルクライマー団体(屋久島フリークライミング協会)の方々がエリアアクセスの課題に対して現在進行形で尽力してくれているので、ここでは詳細は語らないが、屋久島はクライミングエリアとして非常に大きな可能性を秘めていることは間違いない。
自然があり、岩壁があり、コミュニティがあり、ルートは生まれ、継がれていく。

屋久島への旅は、そんな当たり前のことを再確認できた素晴らしい日々だった。

屋久島フリークライミング協会とのトラッド講習会風景。新たなクライミングの芽が育まれる。 写真:佐藤 正純
屋久島フリークライミング協会とのトラッド講習会風景。新たなクライミングの芽が育まれる。 写真:佐藤 正純