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エル・キャピタン頂上で乾杯するジョージ・ホイットモア、ウェイン・メリー、ウォレン・ハーディング。Photo from “Yosemite in the Fifties: The Iron Age” / Ellen Searby Jori
エル・キャピタン頂上で乾杯するジョージ・ホイットモア、ウェイン・メリー、ウォレン・ハーディング。Photo from “Yosemite in the Fifties: The Iron Age” / Ellen Searby Jori

ホイットモアが遺したもの

By ジョン・ロング   |   2021/06/24 2021年6月24日

昨春、有名なクライマーであり自然保護活動家でもあったジョージ・ホイットモア(89歳)が、1958年11月12日の出来事について、友人にメールを送った。ホイットモアと彼のパートナーだったウォレン・ハーディング(1924~2002年)、ウェイン・メリー(1931~2019年)が、ヨセミテ渓谷エル・キャピタンの「ノーズ」ルート初登を成し遂げた日だ。

ホイットモアのメールには「今や最後の生き残り、オオカミに囲まれる立場だ。おそらく残された時間はそう長くないだろう。その時がくるまで、手の届かない星を追い求めて満足するとしよう」とあった。2021年元日、新型コロナウイルス感染症による合併症で衰弱していたホイットモアは、カリフォルニア州フレズノのホスピスで、とうとうそれらの星へ旅立った。

エル・キャピタン登攀は、人類がこれまで成し得た仕業の中で最も成就しにくいといえる。宇宙時代のテクノロジーや近代クライマーのオリンピック選手並みの身体能力をもってしても、エル・キャピタン完登は決して確約されはしない。1958年において、それは革命だった。

1957年7月4日、ウォレン・ハーディング、ビル“ドルト”ファイエラー、マーク・パウエルが、その登攀を開始した。そのころホイットモアは27歳、空軍を除隊したばかりで、ヨセミテから南に148キロ離れたフレズノで薬剤師として働いていた。ハーディングと仲間たちは、固定ロープを設置しながら、ノーズをゆっくり登った。その露出もさることながら、時にはその場その場でギアやテクニックを駆使しなければならない未知の状況にファイエラーはすっかり圧倒され、「キャプテン」の300メートル地点ドルトホールで冒険を断念した。その後、パウエルも足首の負傷で降りることになり、ハーディングはひとり残されてしまった。すぐに渓谷屈指のクライマーであったウェイン・メリーが仲間に加わり、交代でリードすることになった。岩壁基部までの荷揚げの手伝いにはリッチ・コールダウッドが採用された。ホイットモアがチームに加わったのは1958年9月のこと、残された行程は600メートルだ。

ホイットモアは、岩場の経験が豊富で、アンデス山脈やシエラネバダ全域の山々を制覇していたが、最先端のロッククライミングに関しては、これといった経験がなかった。64年前、それをやる人はほとんどいなかったのだ。しかし、ホイットモアの身体能力、粘り強さ、鋼の精神力、「手の届かない星」への秘めた思いが、チームの最終的成功には不可欠であったことが判明する。2016年に日刊紙『フレズノ・ビー』のインタビューでホイットモアはこう語っている。「本にはヒーローがクライミングしている間に荷揚げをしたシェルパとして描かれているが、実は時々クライミングロープをつかんで登っていた。実際、ウェインは荷揚げどころではなかったから、そうでなければ、わたしはもっと登っていたろう。」

ビバークとクライミングの装備、食料、水などが入った45キロのバッグを大岩壁で運搬することは、合金製のアッセンダーや滑車がある今日でさえ重労働だが、1958年当時、登頂までの最後の数日間に(コールダウッドが仕事のため帰らなければならず)ホイットモアがひとりで引き受けた荷揚げの悪夢に比べたら、何てことはない。

リーニングタワーに挑戦中のウォレン・ハーディング(1961年ごろ)。この4年後にハーディングのライバルであるロイヤル・ロビンスが歴史的なソロによる2番目の登攀を成し遂げた。Photo from Yosemite in the Fifties: The Iron Age / George Whitmore
リーニングタワーに挑戦中のウォレン・ハーディング(1961年ごろ)。この4年後にハーディングのライバルであるロイヤル・ロビンスが歴史的なソロによる2番目の登攀を成し遂げた。Photo from Yosemite in the Fifties: The Iron Age / George Whitmore

総期間16か月登攀日数47日におよんだエル・キャピタン初登というチームの偉業。だがその重みを心底理解するには当時の背景を知る必要がある。ハーディングが初めてノーズの最初のクラックに取り付いたとき、ヨセミテの大岩壁ですでに登られていたのはわずか3つ、1947年のロストアロー(約370メートル:ジョン・サラテ、アントン・ネルソン)、1950年のセンチネル北壁(約500メートル:サラテ、アレン・ステック)、そして米国初のグレードVIの登攀とされる1957年のハーフドーム北西壁(約600メートル:ロイヤル・ロビンス、ジェリー・ガルワズ、マイク・シェリック)であった。

ロッククライミングにふさわしいギアは粗雑なものしか存在しなかった(サラテやガルワズは登攀用ハーケンを自分たちで鋳造しており、ホイットモアも同様で、ノーズのために大きなアルミニウム製ハーケンを手作りした)。ロープはヨット用の麻ロープと大差なかったし、ハイキングブーツやスニーカーがロックシューズを兼ねていた。ハーネスが登場するのは何十年も先である。固定ロープを登降する道具は即席で、危険この上なかった。ましてエル・キャピタンの高さは900メートルだ。

当時、懸垂下降の際は自分をロープに直接連結せず、ウエストストラップのカラビナに通しただけのロープで輪を作り片方の肩にかけることで、大雑把な摩擦ブレーキにしていた。もしロープが肩から滑り落ち、ブレーキがきかなかったら落下する。固定ロープを登るときは、ロープに小さいプルージック・ノットを巻き付け、それを1度に数センチずつ押し上げながら登る。150メートルのシングルロープを登るのに2時間はかかっただろう。ホイットモアも時々それをやった。腰に(時には18キロ超の)運搬バッグを吊り下げてだ。それがホイットモアの主な仕事だった。「プルージック方式」で高所までギアを運び上げ、懸垂下降してキャンプに戻り、再び追加の装具を運び上げる。その働きに比べればリードクライマーなど大したことはない。残り3分の2のノーズ登攀がなされている間の総移動距離を考えると、ホイットモアはエル・キャピタンを3~4回は登り降りしたことになるだろう。

一晩かけて山頂の頭壁を登り詰める最後の大仕事は、ホイットモアがいたからこそ可能だった。彼は嵐と戦いながら、200メートルほど下のキャンプ6から新品のドリルとボルトを取ってきて、雨で重くなったロープをプルージックで登った。ハーディングはヘッドランプを装着し、8時間ぶっ通しでハンマーを打ち続け、午前6時、頂上に這い上がった。メリーとホイットモアが後に続いた。ついにエル・キャピタン初登が成し遂げられた。この歴史的ルートを皮切りに、のちにヨセミテのクライミング「黄金時代」と呼ばれる10年の物語が始まる。渓谷のパイオニアたちは、空にひこうき雲を描くように、名だたる一枚岩のすべてを次々に登攀した。しかしヨセミテをクライミング名所にしたのは、後にも先にも、すべてのロッククライミングの父とされるノーズの初登攀だった。

「彼ら(ハーディン、メリー、ホイットモア)は、いわゆる垂直の巡礼路を拓いた。今もそれは地球上のすべてのクライマーがいつか歩きたいと願う道だ。」ライターで冒険家のダニエル・デュアンは言った。ノーズはホイットモアにとって最初で最後の大掛かりな本格的ロッククライミングになった。けれど、それは世界やそこで暮らすわたしたちすべてに対するホイットモアの貢献の始まりにすぎなかった。

ロストアロー・チムニーの2回目の登攀で、フランク・ターバーとボブ・スウィフトは頂上でくつろぎ、ウォレン・ハーディングはハーケンを回収する。 Photo from Yosemite in the Fifties: The Iron Age / George Whitmore
ロストアロー・チムニーの2回目の登攀で、フランク・ターバーとボブ・スウィフトは頂上でくつろぎ、ウォレン・ハーディングはハーケンを回収する。 Photo from Yosemite in the Fifties: The Iron Age / George Whitmore

42年間連れ添った妻のナンシー(76歳)によると、ホイットモアは1970年代初め、自然保護活動に注力するために、生業であった薬局を辞めた。シエラクラブの地域・州・全国キャンペーンに参加し、フレズノを本拠とするテヒパイト支部長を務めた。その時代の多くの活動家がそうであったように、ホイットモアも「雇用創出」のために原野や自然保護区を荒らし、目先の金を求めて再生不可能な資源を破壊するすべての輩と戦った。しばしばこの持続不可能な行為の対極には、付随するダメージをすべて技術で回復できるとするフィクションまで存在した。エル・キャピタンはホイットモアに大きく考え、大胆に行動することを教えた。そして彼はそうした。

1960年代の終わりから1970年代の初めにかけて、ホイットモアはウォルト・ディズニー・カンパニーによるミネラルキング渓谷でのスキーリゾート開発を阻止するシエラクラブの活動を指揮した。この開発プロジェクトは中止され、用地はセコイア国立公園の一部になった。ホイットモアの精力的なロビー活動が功を奏し、1976年にカイザー原生自然区が確立され、1984年にはカリフォルニア州原生自然法が制定された。これにより180万エーカーの土地が国立原生自然保護システムに編入され、現在その一帯にはアンセル・アダムス、ジョン・ミューア、ディンキー・レイクス、モナークなどの原生自然区域が含まれている。彼はモノ湖の保全にも協力し、サンワーキン川回廊のシエラを横断するハイウェイ計画を阻止した。

環境団体<フレンズ・オブ・ヨセミテ・バレー>の忠実な同志として、ホイットモアは、この団体が2000年代に国立公園局に対して法廷で決定的勝利を収めることに助力し、自然・景観河川法の保護下にあったマーセド川一帯の開発を阻止した。さらにホイットモアは、パインフラット貯水池上流のキングス川ダム計画案の白紙撤回でも不可欠な役割を果たした。「最も重要なことは、これによって北部のディオガ峠道から、南部のカーン高原シャーマン峠道にいたるまでの保護が完了したことだ。それは米国本土48州最長の事実上の原生自然区域になる。」1984年9月、フレズノビー紙にホイットモアはそう語った。数年前、甥のランディ・フィッシャーはホイットモアに、エル・キャピタン登攀を自分の功績リストのトップにするかとたずねた。ホイットモアは、リストに入れるかさえわからないと答えたそうだ。

「あの人はクライマーでしたが、それは二の次です。」と妻のナンシーは言った。「自然への愛は、夫がわたしたちに残した最も重要な遺産なんです。」事実、ホイットモアはそれ以上のものを我々に遺してくれた。

チームがノーズに取り付いてからほんの数週間後、ハワイ州オアフ島ノースショアで、サーファーの一群がワイメア湾にパドルアウトした。今では伝説的な超巨大な波しぶきに初めて乗ったのだ。近代ビッグウェーブ・サーフィンの誕生である。この2つの画期的な出来事をきっかけに、アドベンチャー・スポーツを中心にアウトドア全般のブームが起こり、それによって環境に配慮する産業が形成され、その規模は2018年時点で石油・鉱業を合わせたものよりも大きくなっている。

アウトドアコミュニティの中心人物の多くがそうであるように、ホイットモアは金持ちや特権階級の出身ではない、謙虚な人だった。もし手の届かない星をつかめるとしたら、我々は何を成し遂げることができるだろう。彼はそれを教えてくれた。

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