クリーネストライン


越えてきた膨大な山並みを背景に、三ノ窓へ向かう。写真:和田 淳二
越えてきた膨大な山並みを背景に、三ノ窓へ向かう。写真:和田 淳二

もう一つの剱岳リアル北方稜線

By 鈴木 啓紀   |   2021/03/16 2021年3月16日

吹雪の中、重たい荷物にあえぎ、藪と雪をかき分けて必死にラッセルしながら、サンナビキ山からウドノ頭へと続く複雑で不安定な稜線を辿っている時、不意に戸知 寛のことを思った。

4年前、どんな気持ちであいつはここを歩いたんだろう。けっこうきつかったろうな、必死だったろうな、不安な気持ちもあったろう、ワクワクする気持ちもあったろう。
私はほんの一瞬、そんなことを真剣に考え、そこを歩く戸知の姿や、その時の彼の気持ちをずいぶんとリアルに想像した。彼の息使いまで聞こえてくるようだった。

戸知 寛、2018年9月、前穂高岳北尾根を下降中に転落して亡くなった。享年33歳。
私にとって戸知は、山岳会の仲間であり、そしてパタゴニア日本支社の同僚だった。クライマーとして確かな実力を積み上げると同時に、システム・エンジニアというバックグラウンドを活かして、パタゴニアではIT部門で活躍していた。そして、積極的に同僚達をクライミングに連れ出し、生き生きと自分の世界を同僚たちに共有する姿がとても印象的で眩しかった。

戸知 寛 瑞牆山にて。写真:鈴木 啓紀
戸知 寛 瑞牆山にて。写真:鈴木 啓紀

私がアルパインクライミングの世界に足を踏み入れてもう20年以上になる。今まで多くの友人を山で失ってきた。だから、彼の遭難の一報を受け取った時も、まったく動揺はしなかったし、淡々とその事実を受け止め、事故対応についてなすべき段取りを落ち着いて考える余裕もあった。しかし、当たり前のことではあるけど、友人を亡くすことはなかなか辛いことだ。近年、友人を亡くして感じることは、自分の人生からある種の豊かさがごっそりと削り取られていく、という冷たい実感と、それがもたらすなんとも言えない寂しさで、これは、若い頃にはあまり感じなかった種類の感情だ。
戸知とは、山の仲間として、職場の同僚として、もっともっとお互いに語りあうべき言葉があったはずだし、さらに多くの時間を共にしたかった。喪失感と同時に、深い消化不良も感じていた。

その戸知は、2015年の暮れから年始にかけて、佐藤 勇介と組み、剱岳の北方稜線完全縦走、通称リアル北方稜線に挑んでいた。絶悪な気象条件や地形の急峻さ、そして下界との隔絶ぶりから、間違いなく日本一厳しく困難な雪山の一つである剱岳。2999mのその山頂から、はるか日本海にむかって伸びる40㎞以上にも及ぶ稜線が剱岳北方稜線だ。単に剱岳に登る、という観点からは不合理極まりないラインかもしれないが、エスケープも難しい深い山にどっぷりとつかり、人跡稀なる果てしない稜線を踏み越えて剱岳を目指すというそのラインは、非常に美しく、心揺さぶられるものだ。

厳冬期のリアル北方稜線の初完登は、1973年12月から翌1月にかけて、27名の信州大学山岳部の精強なメンバーによって、23日間のチーム戦でなされた。それ以来約40年にわたり、幾度かの挑戦を受けたもののなお、第二登は出ていなかった。2015年の戸知と佐藤の登山は、9日間かけて猫又山まで至るも、絶悪な天候と雪の深さから敗退を余儀なくされた。佐藤は2017年にも別の友人とこの課題に挑んだが、13日間の登山の末、毛勝山から敗退している。

2019年の秋口くらいだったろうか。佐藤 勇介から彼にとって3度目のリアル北方稜線挑戦への参加を打診された私は、二つ返事でその提案に飛びついた。実のところ、「戸知が成し遂げられなかったことを、残された俺達で実現させたい!」というようなことを、それほど本気で思ったわけではなかった。単純に一クライマーとして、その挑戦に震えるような魅力を感じたからなのだけれど、戸知が挑戦したラインという事実は、少し因果を感じさせる事柄ではあった。

佐藤と私、そして共通の友人の和田 淳二を加えた3人は2019年12月22日、リアル北方稜線完全縦走に向けて日本海にほど近い嘉例沢森林公園から入山した。入山2日目には順調に越中駒ヶ岳を越え、3日目の午後にはサンナビキ山に至った。佐藤の前回までの二回の経験と安定した気候条件に助けられ、ここまでは非常に順調な足取りだ。
そして、サンナビキの山頂を越えたあたり、重たい荷物にあえぎ、藪と雪をかき分けて必死にラッセルしていた時に唐突に、自分でも驚くくらい鮮やかに戸知のことを思い出した。4年前のこの場所を登る戸知の姿を、その時の彼の感情を、思い込みや錯覚なのかもしれないけれど、ずいぶん鮮明に想像できたのだった。その日の夕方、我々はウドノ頭のピークにテントを張った。天候は夕方から急速に回復し、入山3日目にして初めて、はるかかなたに、雲を纏って西日に輝く剱岳を目にすることができた。

北方稜線核心部より剱岳を望む。写真:鈴木 啓紀
北方稜線核心部より剱岳を望む。写真:鈴木 啓紀

我々はその後も順調に行程を稼ぎ、5日目には重厚な毛勝三山を越え、赤谷山に取りつくことができた。赤谷山から先剱岳までの行程は、そこだけでも国内第一級のバリエーションルートとして知られている。距離的には全体の80%以上をこなしたものの、気分的にも実質的にも、まだ行程は半ばだ。
天候のめぐりあわせは奇跡的なくらいで、北方稜線の技術的核心部に入るタイミングと移動性高気圧が入ってくるタイミングがばっちりマッチし、冬の剱とは思えないほどの絶好の好天下、我々は深いギャップや不安定で細いリッジが連続する池ノ谷山周辺の稜線を抜けて、入山8日目夕方、富山平野を見下ろす三ノ窓に入ることができた。9日目、徐々に強くなる吹雪の中、池ノ谷ガリーを全力で抜け、視界のない主稜線を慎重に進み、剱岳直下の長次郎谷のコルで雪洞を掘った。翌日は雪洞に停滞し、入山11日目の1月1日、早朝の疑似好天を利用して烈風が叩きつける剱の山頂を踏み、吹雪の中必死のナビゲーションで最後の核心となる早月尾根上部を下りきり、そのまま標高760mの馬場島まで下山。リアル北方稜線完全縦走を果たすことができた。

サンナビキ山での一瞬以降、この登山中に私が戸知のことを思い出すことはもうなかった。

別にそれでいい。
私は個人的な経験として、ふとしたきっかけから非常に鮮やかに戸知のことを思い出し、その光景と感情をひとつの記憶の中に収めることができた。少し大げさだけれど、自分の中に戸知は生きていると知ることができた。

「現代は、本当に価値あるものが退けられる時代のように思う。価値あるものはそう多くはない。やるに値することを探し当て、生をまっとうすることは、砂漠で針を探すほどに困難なことだ。アルピニズムとは、その数少ない価値あるものなのだ」。
尊敬する偉大な先達、新谷 暁生のこの言葉が私は大好きだ。私の実践がアルピニズムであるのか、ちょっと自信はないけれど、私にとって登山はやるに値することだ。この楽しくて、ちょっと過酷な旅を共にした佐藤 勇介と和田 淳二にとっても。戸知 寛にとっても。

馬場島に下山した私たちは、山岳警備隊の詰め所で少しくつろいだ後、タクシーが入る伊折までさらに6㎞以上、雪の積もった真っ暗な林道をとぼとぼと歩いた。

最後に、戸知とともにこの登山に私を導いてくれた谷口 けいのことにも少し触れたい。
剱岳リアル北方稜線は、2015年8月に、アンバサダーである加藤 直之と谷口によって、(おそらくは初の)無雪期完全縦走がされていたのだが、谷口はこの4カ月後、北海道大雪山系の黒岳の事故で亡くなってしまった。
私の心を揺さぶり、この登山に向けて背中を押してくれた彼女の記事を、改めてここで紹介させていただきたい。

パタゴニア・アンバサダーの試練と憧れの夏休み:日本海側末端尾根から剱岳リアル北方稜線50キロ17座の山旅(前編)

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