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ホクレア号とブルーのスナップT

ホクレア号とブルーのスナップT

By 岩井 光子   |   2020/10/09 2020年10月9日

夜空に瞬く星を目当てに目的地へ舵を切る太平洋海洋民の古代航海術。“ウェイファインディング”とも呼ばれます。数千年の歴史がある彼らの智恵を学びにハワイにカヌー留学し、2014年には航海カヌー「ホクレア号」の世界周航クルーに選ばれた内田沙希さん。沙希さんが初めてホクレアに乗った時に着たブルーのスナップTは、砂漠や海を愛した母から受け継いだもの。服に刻まれた小さなキズや汚れの全てが、沙希さんには勲章のように見えるそうです。

ホクレアに導かれた進路

数千年前の古代人は、どうやって南太平洋に浮かぶハワイなどの島々までたどり着いたのでしょうか?その謎をひも解こうと1975年、アメリカ建国200年を記念してハワイで造船されたのが航海カヌー「ホクレア号」です。ホクレアは、ハワイでちょうど真上にのぼる星の名で、ホクレアが頭上に来るとハワイに到着したことを意味します。

現代人にとっては、風のみが動力のカヌーで、GPSやコンパスを使わずに水平線上の見えない島を目指すなんて、無謀なチャレンジとしか思えないかもしれません。ところが、古代の船乗りが自らの身体に“搭載”していたナビゲーションの性能は、実は相当高度なものでした。雲の形や風の方角、海のうねりなど、自然の事象が発するメッセージを的確に読み取り、太陽や星の動きと島々の位置関係を把握していた彼らは、目的の島までかなりの精度で自在に航海することができたそうです。伝統航海術はハワイでは途絶えてしまっていたため、ポリネシア航海協会は1976年、ミクロネシア在住の継承者マウ・ピアイルグの協力を得て、現代の航海計器を一切使わずにハワイからタヒチまで約4000kmの航海を成功させました。太平洋の海洋民が誇る古代の航海術を見事復興させたホクレア号は、現地で大喝采を受けたのです。

そして2007年、ホクレア号ははるばる日本までやってきました。この時、三崎から鎌倉、鎌倉から横浜までの最終航路に乗船したことが大きな人生の転機となったのが、高校3年生だった内田沙希さんです。

沙希さんの父・内田 正洋さんは、航海の歴史などにも精通する海洋ジャーナリストで、シーカヤックの第一人者。正洋さんは、1998年の時点でホクレア号の来日構想を知っていました。プロジェクトを牽引するキャプテン、ナイノア・トンプソンから計画を打ち明けられ、相談されていたからです。ナイノアの熱い思いを受け取った正洋さんは、ホクレア号の功績や意義を国内のメディアなどで紹介する活動を積極的に行い、日本航海の時はサポートクルーとして運行を支えました。

日本で記者会見をするホクレア号のクルー一同。後列左端が正洋さん、右隣が沙希さん。前列右から3人目がナイノア 写真:琢磨 仁
日本で記者会見をするホクレア号のクルー一同。後列左端が正洋さん、右隣が沙希さん。前列右から3人目がナイノア 写真:琢磨 仁

沙希さんは当時をこう振り返ります。
「ホクレアのこともよく知らなくて、お父さんがまた船のことやってるなぁ程度の認識でした。でも、太陽とか星だけを見てハワイから日本まで来たって、一体どんなだろうって? これは中間テストより大事だと判断して、テストをすっぽかして船が停泊していた宇和島まで見に行きました(笑)。その後、葉山の自宅に戻って最終航路に乗せてもらいました」

太陽、風、海のうねり−。自然と対話しているかのようなクルーたちの所作はまぶしく、沙希さんは瞬時に心奪われてしまいます。「自分の進むべき道はこれかもしれない、やってみたい」、直感を確信した沙希さんは、ホクレア訓練生として単身ハワイに渡ることを決めました。

高校卒業後、沙希さんはハワイ大学のコミュニティカレッジに入学し、学校に通いながらナイノアが教えるユース訓練チームで学び始めます。渡米直後は英語がわからず、スケジュールを聞き取るだけで精一杯の時期もありましたが、次第にチームの仲間とも打ち解け、親睦を深めていきます。教わったことののみ込みが速く、仲間からの信頼も厚かった沙希さんは2012年、ホクレア号に帆走するカヌー・ヒキアナリア号の処女航海でクルーを務め、2014年には世界周航(WWV)のクルーに抜擢されました。ニュージーランドからハワイまでを再びヒキアナリアに乗船し、大海原での古代式航海を存分に味わったのです。

母の思い出が詰まった服

沙希さんが日本で初めてホクレア号に乗せてもらった時に着ていたのが、パタゴニアのブルーのスナップT。母親が長く着ていたもので、ブルーが好きな沙希さんもよく借りて着ていました。

初めてホクレア号に乗船した当時の沙希さん 写真:内田 沙希
初めてホクレア号に乗船した当時の沙希さん 写真:内田 沙希

沙希さんの母親は “ヤーミー”の愛称で親しまれたデザイナーの山本 昌美さん(2016年に急逝)。海も砂漠も大好きで、浅葉克己デザイン室で広告やエディトリアルデザインにかかわる一方、日本人女性として初めてパリ・ダカールラリーに出場、体験記をつづった本も出版しています。レースを縁にパタゴニア本社から声がかかり、沙希さんが生まれるまでの一時期、デザイナーとしてベンチュラのパタゴニア本社でテキスタルデザインやカタログ制作に携わっていました。

ベンチュラで働いていた頃のヤーミーさん。バハカリフォルニアの道中でキャンプを楽しむ 写真提供:内田 沙希
ベンチュラで働いていた頃のヤーミーさん。バハカリフォルニアの道中でキャンプを楽しむ 写真提供:内田 沙希

「だから、母親から受け継いだパタゴニアの服は多いですね。お母さんがパタゴニアにいたのは私が生まれる前だから、どの服も30年近くかそれ以上経っているけど現役です。ブルーのスナップTはフリースだから、キャンプで火の粉がピュッて飛んで開いた穴が所々にありますが、気にしない(笑)。多分一生着ると思います」

「母はどの服も長く着ていました。Tシャツもヨレヨレになったものばかり(笑)。裁縫が得意で、私の破れた服も持っていくとすぐに直してくれましたし、小さい頃はワンピースも作ってくれました」 写真提供:内田 沙希
「母はどの服も長く着ていました。Tシャツもヨレヨレになったものばかり(笑)。裁縫が得意で、私の破れた服も持っていくとすぐに直してくれましたし、小さい頃はワンピースも作ってくれました」 写真提供:内田 沙希

ダボついたつなぎ服と色のあせた帽子が似合ってしまうヤーミーさんのワイルドな魅力には、あのユーミンも衝撃を受け、憧れたそうです。どうしたら彼女のようにカッコよく着こなせるのかを考えて砂漠の旅にも興味を持ち、ツアーを中断してヤーミーさんのパリ・ダカールツアーに同行したというエピソードもあります。飾らないヤーミーさんのスタイルは、親友だったユーミンの人生観や楽曲にも大きな影響を与えました。

沙希さんがヤーミーさんから受け継いだのは、サハラ砂漠縦断レースや、カヤック旅など、世界各地で挑んだ探検の痕跡が深くしみ込んだ服。「ほんとに服って勲章みたいだし、宝物」と沙希さん。ブルーのスナップTについた汚れやキズの数々、母が繕った穴。そこに、今では沙希さんが太平洋で仲間と過ごした日々もくっつき、ますますかけがえのない一着になっています。「両親から受け継いだ大好きな服を、今度は私の子どもの代まで引き継げたらいいな」、沙希さんはそう話します。

幼い頃の沙希さんを抱くヤーミーさん 写真提供:内田 沙希
幼い頃の沙希さんを抱くヤーミーさん 写真提供:内田 沙希

「お母さんは、ホクレアのことをすごく応援してくれたし、一番の理解者でした」、と沙希さん。ヤーミーさんは、沙希さんから聞いたたくさんの話に深く共感し、同時に表現者として触発もされ、絵本『ふしぎのヤッポ島』シリーズに結実させました。ホクレアの世界観をファンタジーに落とし込んだほのぼのとした物語で、冒険好きの少女“プキプキ”と、虹色の顔としっぽを持ったサルの“ポイ”を中心に、登場人物たちは風や海、空と会話をしながらのんびり暮らしています。ヤッポ島とは日本のことで、日本を太平洋の海洋民の国ととらえた時に「ヤポネシア」と呼んだことにちなむそうです。ゆっくり動くヤッポ島は外洋に浮かぶホクレアを想起させますし、プキプキは沙希さんが目指す女性ナビゲーターかもしれません。大海を広大な宇宙に置き換えれば、ヤッポ島は宇宙に浮かぶ星、地球に例えられます。海や空気をきれいにする“渦”や“虹色の雲”は、地球の循環作用を思わせます。

「お母さんが伝えたかったことを最近考えるんです。絵本を読み直して、ああ、言いたいことはこういうことだったのかなあって。今になって気づかされることも多いです」

道具のように直して使う

沙希さんは現在、世界周航で知り合ったマオリのパートナーとニュージーランドのワンガヌイに暮らしています。一昨年、息子も誕生しました。ワンガヌイは古くからマオリの人たちがカヌーで行き来していた雄大な河川沿いの町で、海までも車で5分ほど。家の周りでは羊が放牧されていて、ニュージーランドらしいのどかな風景が広がっています。

海岸を散歩する沙希さんファミリー。「子どもが生まれてから私も服を直す機会が増えました。パートナーの姪っ子や甥っ子もたくさんいるので、彼らの穴開き靴下は私が直しています」 写真:内田 沙希
海岸を散歩する沙希さんファミリー。「子どもが生まれてから私も服を直す機会が増えました。パートナーの姪っ子や甥っ子もたくさんいるので、彼らの穴開き靴下は私が直しています」 写真:内田 沙希

「いまだに自分に子どもがいることが、信じられない(笑)」と話す沙希さん。静かな郊外で送る今の生活は、理想としていたシンプルな暮らしに近いと感じています。

「服も良いものを長く着たいし、好きな服をずっと長く着たい。自分に子どもができてから余計そう思います」

沙希さんは服も道具のように直して着る習慣が身についています。カヌーのカリキュラムで、船のメンテナンスや造船技術、修理についても専門的に学んできたことが影響しているようです。

「カヌーには必要最小限のものしか乗せないので、道具が壊れても、どうにかして使い続けようという考えにシフトしていく必要があります。だから、服に対しても同じように考えるようになっているのかもしれません。海の上にいると、本当に必要なものってあんまりないとわかるんです」

2つの夢に向かって

沙希さんの夢は、ホクレア号のナビゲーターになること。冒頭で触れたミクロネシアの航海士・マウは、弟子だった頃のナイノアに、「お前、タヒチは見えるか?」とハワイで尋ねたそうです。

「ハワイからタヒチなんて絶対に見えません。じゃあ、マウは何を言おうとしたのか−? この話の解釈はいろいろあると思いますが、私は “信じられる力が大切”、と理解しました」

タヒチが見える-、そう信じる気持ちが大切。ヴィジョンを示してクルー一同を引っ張っていく高い精神性も、ナビゲーターには求められます。

「クルーを“家族”(ハワイ語でohana)と呼びますが、毎回奇跡みたいと思うのが、どんなにいざこざがあっても、不思議と家族みたいに終わるんです。海上ではちょっとしたことが命とりになりますから、そういう時間を一緒に過ごしたら、ほんとに家族になるんです」

初めての世界周航を経験して、沙希さんの胸には、ホクレアとヒキアナリアが互いに手を携えて、訪れた島々を抱きしめている映像が浮かんだそうです。交流を深めた島の人たちが、新たな“家族”になっていくからです。海を通じて世界はつながっています。国や人種は違っても、カヌーを通してつながることができるのです。

「いつか日本でもカヌーを造って、子どもたちと世界を回りたい。カヌーに乗っていると、人生で一番大切なことがくっきり見えてくる。私がカヌーを通して学んだこと、見たもの、感じたことを子どもたちと共有したい。子どもは未来だと思うから。それがもう一つの夢です」

<内田 沙希(うちださき)>
1989年生まれ。高校卒業後、ホクレア訓練生としてハワイ留学。ハワイ大学カピラオニコミュニティカレッジ卒。2012年ニュージーランドで造られたヒキアナリア号の処女航海クルーに。2014年5月に出航したホクレア号のWWV(世界周航)クルーに抜擢される。ポリネシア航海協会(PVS)所属。現在家族とニュージーランド在住。

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