イランで見つけた避難地
細い小川の上に古びた木板が掛けられただけのガタガタの橋を渡り、みすぼらしく濡れて臭いを放つ羊の群れを通り過ぎ、きつい傾斜を登りはじめたところで、遠方のカスピ海で生まれた霧が、道路を離れた私たちのまわりで渦を巻いた。イランのアルボルズ山脈にあるアラムクー山のベースキャンプを目指し、ブリッタニー・グリフィス、ケイト・ラザフォード、アン・ギルバート・チェイスと、私たちのガイドのモハメッド・サッジャーディーは、トレイルのほとんどを走って登った。何日もつづいた車での移動の末にやっと動くことができ、興奮していた私たちは、霧の中へと消えていった。
1〜2キロメートル進んだところで最後尾にいた私が角を曲がると、4人は何か目に見えない境界に立ち止まっているようだった。もうスカーフを外していいよ、とモハメッドが言った。私たちはすぐに頭からスカーフを外し、アウトドアウェアの上に着ていた大きめのチュニックを脱ぐと、それをバックパックにしまった。涼しい山の風で、露出した私の腕に鳥肌が立った。長袖の下は暑くて汗をかき、ずっと覆われていた腕は奇妙な感覚を受けて、不思議と露わな気分になった。
この5 日間、私たちはイスファハーンとカシャーンの古都を探索し、モスクや宮殿の巨大なドームや複雑なモザイクに感嘆していた。バザールで絨毯商人と値引き交渉をしたり、モハメッドの地元の岩山を登ったりもした。イスファハーン郊外の砂漠を通るハイウェイの脇にそびえる粉吹いたその石灰岩の崖は、近くの警察署が由来となって「ポリス・ウォール」と名づけられていた。初日の晩も、イスファハーンの背後に立ちはだかるソッフェ山に登った。時差ボケで、慣れないスカーフとチュニックを着て汗をかきながら。一緒に登った大勢のアウトドア愛好家たちの中には、男性も女性も、そして子供もいた。見晴らしのよい山頂に到着したころには日が暮れ、即興的にパーティーがはじまった。スピーカーからはイラン音楽が流れ出し、男性たちは腕や腰を振り、挑発的な動きで踊り出した。女性たちは観るだけで、なかには手拍子を打つ人もいたが、誰もダンスには加わらなかった。街路、バザール、モスク、博物館、この険しい岩山や山につづくトレイルでさえも、すべては公共の場であり、イスラム共和国の法律のもと、西洋人には慣れない厳しい規則が適用される。それは男性にも適用されるが、とくに女性に対して厳格だ。これらの規則はイラン人である彼ら自身の家庭や私的領域の境界の向こうまで、また私たちの小さな私的領域であるホテルの部屋のドアのすぐ外までを支配する。そして、ここアラムクーへのトレイルではその自由な私的領域は広がり、長く険しい谷や頂、さらにその先へとつづく。
イランのクライマーにとって、このキャンプ地や周囲の山々はイラン・イスラム共和国の生活の一部である要求や規制や、国による監視から逃げるための、切り立つ岩に囲まれた避難地だ。モハメッドによると、そういった避難地は警察の目が届かない山々や砂漠、その他道路から遠く離れた野生地にある。とくに若い世代にとっては、自分自身を見つめ直し、友情やコミュニティを築くことができる場所なのだ。そうした行為は、男女の交わりが厳しく制限される場所では、不可能でなくとも難しい。
このエッセイはMarch Journal 2019に掲載されたものです。