道はラバに聞け
モロッコのハイ・アトラス山脈にある古代の道をたどって。
モロッコのアトラス山脈を旅するときは、「ソウ、ゴウ、イッチ(食べる、眠る、飲む)」というアマジグの3 つの言葉を知っていれば十分。あとは住民の手厚い待遇にまかせればいい。と言うのは、地元でガイドを務めるサミール・アーモドゥ。信じがたい忠告だが、目の前に置かれた焼きたてのパンの山とポットからいい香りを漂わせるミントティーが、その信憑性を立証する。サミールがテーブルの向かい側で色鮮やかなクッションにゆったりと腰を落ち着けると、朝食が運ばれてくる。卵シチューがたっぷり入った、タジンと呼ばれる円錐形の2 つの土鍋からは、まるでミニ火山のように湯気が吹き出している。
ここはドゥズルゥという村で、料理をよそってくれるのはハミード・アシュトゥク。私たちが宿泊している近くの宿で働く彼は、朝のライディング中に通りかかった私たちを自分の家に招いてくれた。2つの鍋が私たち全員──コロラドから来ている友人のレスリー&クリス・キーマイヤー、今回の旅で親しくなったガイドのピエール= アラン・レンファー、ハッサン・ベザジとサミール──の腹を満たす。
私たちのモロッコ旅行は終盤だが、サミールと一緒にトレイルに向かうのは今日がはじめてだ。普段はトレッキングのガイドを務める26 歳のサミールは、最近マウンテンバイクをはじめ、この新たなレクリエーションに完全に魅せられている。サミールは今日のライドを「探検コース」と名づけ、探検の対象であるアトラス山脈の伝統的なトレイルのどこかへ案内してくれる。そうしたトレイルが、私たちがここに来たそもそもの目的だ。
アフリカ大陸北部を縁どって約1,930 キロメートルに延びるアトラス山脈は、3,700 メートル級の山々が大西洋と地中海と、広大な灼熱のサハラ砂漠を隔てている。アトラス山脈を故郷とするアマジグ人は、アラビア軍が侵入して彼らを「ベルベル人」と名づけるまでに、すでに1,500 年以上近くここで暮らしてきた。アマジグ人はベルベルという言葉は使わない。それは「未開人」に由来するからだ。しかし地元の山々を網目のように走る小道のネットワークは、いまでも使っている。何世代にもわたって作り上げられてきたこれらの小道は、かつて西洋とサハラ以南のアフリカを結ぶ最初の流通経路の役割を果たした。
乾いた山腹の急斜面に暮らす人びとを移動させ、つなげてきたこの小道網が、近年ではワールドクラスのシングルトラックとして使われていると聞いた私たちは、2018 年9 月、自転車を移動手段にアトラス山脈の生活の基盤を探検するべく出発した。
故国王ハッサン2 世はモロッコを、「その根はアフリカに伸び、葉はヨーロッパの空気を吸う」場所と呼んだと言われている。私たちは到着後まもなく、マラケシュのヤシの木が並ぶカラフルな通りを自転車で走りながら、その言葉の意味を理解する。屋台から漂ういい匂いに混じって聞こえてくるフランス語、スペイン語、アラビア語。
人口は100 万に近く、観光業で活気あふれるマラケシュは、モロッコ屈指の文化的拠点だ。国自体はおもにイスラム教であるが、複数の大学、美術館、劇場があり、女性は通常ベールを被らずに外出し、市街地のバーでは若い女性を見かけることもある。2009 年には当時33 歳のファティマ・ザハラ・マンスーリが、女性市長として選出された。
とは言え、街の最も有名な文化的シンボルはマラケシュの旧市街メディナだ。1,000 年前からマラケシュの中心にあり、ユネスコの世界遺産にも登録されている。赤石の城壁に囲まれ、そこには高さ約80メートルのミナレット(尖塔)のあるクトゥビア・モスク、カスバの壁と庭園、バディア宮殿の見捨てられた城壁などがある。私たちは大西洋岸で獲れた魚の料理を味見しながら、民芸品や露店が並ぶ風の吹く狭い通りをぶらつく。
翌朝は近くのアガファイ砂漠を自転車で走って時差ボケを解消し、それから山へと向かった。季節は秋口で、雨季に入るとトレイルの状態が劇的に改善され、作物や植物が青々と活気づくと聞いていた。砂漠が山麓の丘へと変わり、イチジク、アルガン、オリーブの果樹園や、コルクガシ、ナラ、マツ、スギの林を走り抜ける。蘇った青葉が赤色土に映える。
道沿いに小さな店がひょっこりと現れ、ウリカ渓谷に入ったことがわかる。観光客はタジン鍋やアルガン油を買ったり、「ラクダ乗り」を楽しんだりしているが、私たちの目当ては近くの山の峠から下降するトレイルだ。これから数日間、簡単にアクセスできるシングルトラックを思い切り楽しむことになる。ピエール= アランは、これはまだほんのお試しだと言う。いよいよこれから本格的なライドに突入する。
ピエール= アランが言うのだから間違いない。1990 年にマウンテンバイクレースではじめてモロッコを訪れたスイス人サイクリストのピエール= アランは、1992 年にマラケシュに移住した。フランス、スイス、イタリアで自転車旅行を率先してきた経験を活かし、1990 年代はこの地方のマウンテンバイキングの開拓に費やし、そして1999 年に自分の会社〈マラケシュ・バイク・アクション〉を設立した。それ以来、世界チャンピオンのファビアン・バレルやフリーライディングのアイコンであるマーク・ウィアーらのアスリートをガイドしてきた。
ピエール= アランが言う「本格的なライド」とは、ハイ・アトラス山脈に遍在する小さな集落をつなぐ、入り組んだシングルトラックを走ることだ。山の急斜面には、トウモロコシやカボチャやイモの段々畑に囲まれた住居が立ち並ぶ。土と藁と水を使って作られたこれらの家屋は、隣人の壁とつながる構造で、集落の色は山腹の斜面に溶け込んでいる。家屋には地元の土が使われているため、土壌の色合いと調和する。赤色の村の隣にカーキ色の村があり、その隣に黄色の村があるという具合。同じ色調が並ぶ住居に囲まれて、明るいバラ色に塗られたコンクリートのモスクが際立つ。
私たちの目的地であり、残りの日程の拠点となるのは、標高約2,000メートルのトゥルキーヌの村の上にある「ラ・ベルジュロワ・ドゥ・アリ」という、羊小屋を改装して作った石造りの宿だ。国内最高峰(標高4,165 メートル)のトゥブカル山が地平線にそびえ立つものの、私たちの目は静かなオアシスから下に伸びるシングルトラックに向いている。
ハイ・アトラスのこの地方では、トレイルはいまも多くの集落をより直接的につなぐ、統合された移動手段として使われている。それは数世紀にわたる歩行者の交通が成し得た自然の能率性が備わった、精巧で複雑な創造物として岩だらけの険しい斜面を覆っている。
アマジグ人はおそらく数千年間にわたって、羊や山羊を放牧し、アトラス山脈の乾いた土地を耕してきた。この地方がローマ、アラビア、イスラム、フランス、スペインの影響に、ときには暴力的にさらされてきたにもかかわらず。アマジグ人の大部分は正統派イスラム教徒のスンニ派であるが、その伝統的な生活様式の大部分はいまも保たれており、アマジグ人の母語であるタマジクト語は、現在も共通言語として使われている。
そして彼らは、ほぼ破壊不可能なトレイルの作り方も知っている。ときに2.5 メートルにもおよぶ石の擁壁が不安定な箇所を支え、また別の場所では複数の石板が重い荷物を背負った家畜や浸食から路面を守る。トレイルは人間と動物の通行に理想的な傾斜を実現するように、緩やかな丘陵の等高線に沿って、戦略的に敷かれている。現代の数々のトレイル建設技術がこうした過去の最高傑作から発展したというのも当然のことだろう。世界各地でトレイルを作った経験のあるクリスは、このトレイルの最も複雑な区間をアメリカで複製するとしたら、1キロメートル当たり85,000ドルを要すると見積もる。
精緻を極めた石細工の合間で、トレイルの表面は黒いサイコロ型の砂利から踏み固められた赤土へと多様に変化する。わだちのある荒れた箇所もあるが、トレイルの流れるような感覚に息を呑む。赤い地面、渓谷の壁、石の特徴、そして信じがたいほどに素晴らしいライディングは、コロラドやユタ、アリゾナの一部を連想させる。
複雑に絡む未舗装路を走りながら、私はピエール= アランのこの地方に関する深い知識と、アラビア語、フランス語、タマジクト語を話す能力がなかったら、このライドがどれほど困難であるかということに気づく。彼はトレイルを見つける一番簡単な方法は、ラバが使う道を選ぶことだと言う。交易や移動に欠かせない区間は最も慎重に作られ、整備されているからだ。
トレイルではたまにロバやラバ、または徒歩で移動する村人を見かけるくらいで、ほとんど交通はない。周辺の丘では牧夫たちが羊や山羊を追っている。自転車で村を走り抜けると、村人が物珍しそうに家の入口から私たちを眺める。子供たちは笑い声を上げながら私たちの横を走り、ハイタッチをしたり、「ボンジュール」「サラーム」と声をかけたりしてくる。フランスとアラビアの影響の名残だ。私たちは村人の優しさにできるだけ応えられるよう手を振り、挨拶を返す。
ある村で出会ったハンナという少女は、私の手を取って近くのクルミの木の下へ連れて行く。黒く変色したクルミの殻を石にぶつけて割ると、中身は腐っていた。少女は手の届かない枝にある緑の殻を指差す。私がそれを1つもぎ取って割ると、中には大きく新鮮なクルミが入っていた。私たちはそれを分けて食べる。
いま私が下ってきたトレイルはハンナの通学路だろうと思っていたが、ガイドのハッサンがそれを尋ねると、彼女は頭と指を大きく振って「ノー」と伝える。学校に行くのは男の子たちだけなのだ。アトラス山脈の農村部では女の子たちも学校に通うようになってきたとはいえ、まだまだ大きな課題だ。ハンナは大きな笑みを浮かべ、私を送り出す。
そして翌朝、私たちはハミードの家でタジン鍋を食べている。これからサミールが新たなライドに案内してくれる。贅沢な食事と何杯ものお茶で満腹になると、未舗装路を1時間上っていき、山腹のガレ場に下降する。ベンチカットのトレイルは爽快で、狭く、露出し、急角度のスイッチバックで分割されている。初心者とはいえ、サミールは良好な「探検コース」の選び方を知っている。
アトラス山脈はまだマウンテンバイキングの目的地ではないかもしれないが、結束の固いマウンテンバイク文化が国のあちこちで発展しつつある。〈アソシアシオン・ナショナール・ド・VTT〉という、マラケシュを拠点に置くマウンテンバイクの擁護団体を創設したアイマド・ラアウアーヌは、国際的に認識されたマウンテンバイクのイベントをモロッコで開催することを目指している。現在アイマドが催すアトラス山脈での3 日間のバイクキャンプには、この1年間に150 人のモロッコ人マウンテンバイカーが参加したという。これは新たなライダーたちがアトラス山脈の古代の経路の過去と未来を結びながら、マウンテンバイクという新しいレクリエーションを習得および探検する絶好の機会となっている。
私たちの旅の最後のライドは、北部の山麓の丘にある人口約15,000 人の町アミズミズまでの下りだ。アミズミズはこの地方の数々の小さな集落の中心地で、週1回開かれるスーク(青空市場)へ、15 キロメートル以上離れたそれぞれの集落から、村人たちが物の売買にやって来る。その多くが使うのは私たちが走っているトレイルで、ラバやロバには売り物の作物や家畜が積まれ、山羊を運んでいるラバさえいる。
対照的な山の静けさが賑やかな町をさらに活気づけ、笑い声と話し声に迎えられる。籠はオリーブ、イチジク、リンゴ、キュウリ、カボチャなどで膨らみ、天井からは新鮮な肉がぶら下がっている。道路は自動車で混雑し、イスラムの礼拝時間の知らせが聞こえてくる。混み合うレストランのテーブルに着き、旅の初日からの定番であるタジン鍋とミントティーを囲んだ私たちは、冒険の日々とラバが築いた何キロものトレイル、そしてアトラス山脈の人びとに感謝の祝杯を挙げる。「ソウ、ゴウ、イッチ!」