吹っ切る
世界の原生地に対する生涯をかけた情熱について、ひとりの女性クライマーが語ります。
兄の頬は青いベロアのシートに押しつけられ、口はかすかに開いていた。彼はひょろ長い足を、我が家の愛車ビュイックの後部席のドアからドアまで、広げていた。床で横になっていた私は、運転席の後ろの空間にうずくまろうと、運転席と助手席のあいだの突起部の上をモゾモゾと動いた。父は荷物を積みすぎて横転しそうな車を、ミネアポリス郊外の小さな我が家から西の、サウスダコタのバッドランズへと走らせた。岩塔やビュートが点在する大草原の景観で、太古の昔にはワニやサイや剣歯虎が棲んでいた場所。それは当時4歳だった私には、はじめて見る光景だった。
その後12年間、夏になると両親は2週間の休暇を利用して、私たちを西へ西へと導き、国立公園や国定記念物や史跡を探索した。私たちはロッキーマウンテンのボルダーをよじ登り、氷のように冷たい高山湖で誰がいちばん長く浸かっていられるかを競った。広大な地平線の果てに陽が沈むと、その日に見た野生動物について語り、星空を見上げた。順番に話す怪談でテントは笑いに膨らみ、冷えた空気は疲れた身体を癒した。私が10代だったある夏は、ヨセミテへと旅した。私の目は巨大な花崗岩の壁に仰天した。エル・キャピタンを見上げようと首を伸ばした私は独りごちた。「いつかこれを登ってやるわ」
1864年、現在私たちがヨセミテ国立公園と呼ぶ場所を、エイブラハム・リンカーン大統領が最初に保護した。当時そこは鉱業や入植者によって増加する商業搾取の危機にさらされていた。リンカーンの行動は国立公園システムの先例であり、公有地保護における画期的な出来事だった。歴史については認識していなかったものの、私にとってエル・キャピタンの完全なる不可能さはクライミングのみならず、人生全体における無限の機会を象徴していた。わずか4歳であっても、できるだけ速く丘へダッシュし、ピアノの曲を完全にマスターするために練習し、近所にあった自転車ルートの自己記録を破った。けれどもエル・キャピタンは、私の想像など吹き飛ばしてしまった。
ヨセミテへの最初の家族旅行から10年後、凍てつくマーセド・リバーに足を浸しながら、私は興奮気味に父に電話をかけ、エル・キャピタン登攀成功のニュースを伝えた。それはその後10回以上つづくことになる登攀の最初だった。子供時代のロードトリップは、クライミングに対する情熱へとその姿を変えた。私はコロラドの裏庭にあった岩場に、ヨセミテのそびえ立つ花崗岩に、インディアン・クリークの赤い岩の砂漠の魔法に、ザイオンの不可思議な渓谷と壁に、恋をした。
クライミングの冒険はグリーンランド、インド、パタゴニアへと私を導いた。私は山頂を、景色を、そしてさえない日すらも、逆立ちで祝った。それは集中力と健康と喜びのための、単純な逆位のポーズだ。それほどの自由を感じながらも、その恩恵を分かち合わないことを無駄に思った私は、クライミングとヨガの合宿を開催し、パラドックス・スポーツ(身体障害者のためのクライミング組織)でボランティアをして、公有地のためのより声高な提唱者になろうとした。2017年春、連邦議会の議員とミーティングをするため、私は12 人のクライマーとワシントンDC で合流した。個々の議員と話をし、彼らの殻を破り、その下に隠された真の人間性を見出そうとした。彼らにハイキングやクライミングに連れて行くことさえ申し出て、さらに後日には電子メールでその申し出がいつでも有効であることを知らせた。私は少しでも一緒にアウトドアで時間を過ごすことができれば、彼らが理解してくれるだろうと信じたのだ。彼らが野生地を保護する動機となるだろうと。私は熱烈なユーザーというだけでなく、公務員として語り、行動した。国立公園サービスのクライミングレンジャーとして働き、毎年何千もの訪問者と交流し、捜索救助と医療補助を提供した。少なくとも、当時はそうしていた。
2017年10月11日、エル・キャピタンの「ザ・ノーズ」のブーツフレークを登攀中、私は不注意により40メートル近く墜落し、レッジに体を打ちつけた。墜落したことは覚えていないが、事故前日の朝のことは覚えている。クライミングレンジャーとしてのシーズンの終わりを迎えて疲れていた私は、気乗りしないままヨセミテへと車を走らせた。私の恋愛は破綻しかけていて、自分のクライミングへの愛すら疑問視していた。私は家にとどまって、控えていたトレイルランニングの目標に向けてトレーニングをしたい気分だった。だが、私には義務感があった。計画は立っていたし、キャンプ場も予約していて、クライミングパートナーのジョジー・マッキーと私は、登ると言ったからには登るしかないように感じていた。私たちは「ザ・ノーズ」のスピード登攀を計画していた。6時間かからずにできるはずだった。
自分の直感を信じるべきだったと思う。
登りはじめたとき、何かおかしかった。私はうまく登っていて、すばやくピッチを片づけてはいたが、それでも自分がそこにはいないかのように感じていた。通常、極端なほどきちんとギアを取る私が、怠惰さからか、鈍さからか、あるいはたんなる愚かさからか、そのセクションを終えてしまいたいと思い、ブーツフレークの上までランナウトした。最後の記憶はハンドジャムと、傾斜がかすかにキツくなりはじめていたことだった。
私は病院のベッドで目覚めた。下半身不随だった。ジョジーとクライミングレンジャー仲間たちが私の命を救ってくれた。私の腰、足、臀部の神経は痛みでうずいた。あたかも何年も動いていないようだった。全国で屈指の神経外科医たちが、これまでに見た最悪の脊髄損傷のひとつだと言った。そして私がふたたび歩くことはないだろう、とも。
なぜエステス・パークにとどまらなかったのか。なぜ自分自身に耳を傾け、スローダウンしなかったのか。なぜたった2分を費やしてプロテクションを取らなかったのか。あと2分かけていたら、私は歩き、笑い、自信を抱き、いまや破綻した恋愛についてクヨクヨせず、何かを証明したいという自分の利己的で頑固な衝動が山での自由を私から剥奪したことにも、苦悩していなかっただろう。すべてを証明するために。なんて欲張り者。
私はおびえている。二度と歩けないこと、医者が正しいことを。立ち上がり、散策し、ブラブラし、つま先の下の砂の感触や、温かい水に浸かった脚の感覚や、腿に触れる手の感覚という喜びを二度と得られないことを、恐れている。愛を見つけられないことを。自分を許せないことを。
ほんのかすかな記憶で涙する。両親の元に戻ったとき、家へ向かう角を曲がった私は大泣きした。昔の私を知っていた人に会うと、いつも泣き崩れる。ベッドに座り、体を押して、脳からの信号を脊髄へ伝えようとし、脚が無言で不動なのを苦悶して見つめる。医者はそれを止めるように言う。エネルギーの無駄であり、欲求不満を招くだけだからと。でも私は耳を貸さない。
事故は私の人生のルートを変えた。でも私はまだ生きていて、行動することができる。セラピストは脚を支えて立たせる機械をもっている。脚を感じることはできないが、立っていることには表現しがたい良い感覚がある。友人が砂利や土のトレイルで車椅子を押してくれると、心が踊る。私はまだ野生地をとても愛している。だからまたDC へ行き、公有地保護の問題について迫る。何度でも、できるかぎり、必要なかぎり。いまも立法者たちをクライミングに連れ出すことができたらと思う。彼らのうちの1人でもどこかの美しいトレイルに一緒に出向いてくれるというのなら、私の申し出はいまも有効だ。