僕たちの意思表示「バイバイ原発3.11きょうと」
2018年3月11日、今年も僕たちパタゴニア京都は「バイバイ原発3.11きょうと」デモに参加した。それは2015年から毎年つづけている僕たちの意思表示だ。
「バイバイ原発きょうと」は、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故の翌年2012年、このまま原子力を利用した発電をつづけていくことへの多くの人の疑問や不安が原動力となってはじまった。京都の北、福井県若狭湾に15基もの原発をかかえるこの土地では、福島の事故は他人事ではない。もし若狭湾の原発に何かあれば、福井、京都のみならず、関西の水がめといわれる琵琶湖も汚染される可能性がある。琵琶湖由来の水を水道水として利用している人びとは関西地域で約1400万人と想定されている。
現代社会では新しく刺激的な情報が日々生まれ、それらであふれている。そして残念なことに、遠くの出来事はすぐに思い出されなくなってしまう。すでに福島のことは過去の出来事、と感じている人も増えている。2012年から個人的にこのデモに参加していたパタゴニア京都のスタッフからも、デモへの参加者が年々少しずつ減っていることも聞いていた。そんななか、福島の事故の収拾もついていないにもかかわらず、政府は止まっていた原発の再稼動や、さらに海外への輸出まではじめようとしていた。その話を聞いた京都ストアの瀬戸マネージャーがひとつの決断を下した。「デモの日はストアの営業を止めて、スタッフ皆でデモに参加し、脱原発を訴えよう!」と。このときのことは2015年のクリーネストラインに詳しくあるので、ご興味があれば是非お読みください。
それ以来パタゴニア京都では3月のこの日のデモに参加し、脱原発を訴えつづけている。ストアは営業しているが、デモに参加したいというスタッフの希望は考慮され、週末という忙しい日にも関わらず、店頭勤務から外してもらうことができる。京都以外のストアスタッフの参加も増えてきている。それにも増して僕たちのデモ参加への原動力となっているのは、カスタマーからの声だ。「デモ」という行動に躊躇する日本人はまだまだ多いが、「デモには参加しにくいが、パタゴニアの姿勢には賛同する」という声は確実にいただいているし、2015年に作った「Patagonia Says No Nukes Go Renewable」のステッカーをほしいという声もいまだに多い。今年のデモ参加中も、信号待ちで声を掛けられたり、写真を撮られたりすることも多かった。今年2018年のデモには主催者発表で約2500人が参加した。関西一帯の人口で考えればデモに参加する人数はわずかな数字かもしれない。でも僕たちには、僕たちの後ろには多くの賛同者がいて、僕たちはその多くの人たちの代弁者としてデモに参加したという誇らしい思いがある。
デモ参加を決めてからよく聞かれる質問の一つに、「もし福島の事故が起きなくても原発に反対していたか?」がある。その答えは「Yes」だ。仮に原発が事故を起こさないものだとしても、発電期間が終わった原発には問題が山積みにある。無害化するまで数万年かかるといわれる使用済み核燃料、原子力発電所の解体やその際に発生する放射性廃棄物等々。それらの問題は、すべてこれからの世代の負担として残されてしまう。原発を動かさないことへの経済的損失を訴える人もいるが、それは目先の利益にとらわれた短い時間軸での話だ。原発の発電期間が終わったあとの後始末にかかる負担は、発電で得られる利益を上回ることが示唆されている。いまの世代だけが利益を得て、その負担はまだ生まれてもいないこの先の世代に押し付けることが正しい経済成長なのだろうか。環境問題の多くに見られる、目先の利益をがむしゃらに追い求め、負担は次の世代へ先送りするというこの構図。「いまの生活を贅沢に楽しみたいから、お前たちの名義で借金した。返済はよろしくな」 自分の子どもたちにそんなことを言えますか?
残念ながらすでに原発は存在し、使用済み核燃料など、次の世代に引き継がなければならない問題は発生すでに発生してしまっている。だから僕たちにできることは、せめてあとの世代への負担を可能なかぎり減らすこと、そしていま解決できることはいま解決すると決めること。そのためには政府や企業が行動を起こすのを待つだけでは遅すぎる。もちろん政府や企業への働きかけはつづけなくてはいけない。だが僕たち個人でのできる行動も重要だ。
パタゴニア京都のストアでは、個人でできるエネルギー問題への取り組みを展示している。これはスタッフが個人的に取り組んだ行動の体験談で、パタゴニアのスタッフだからできたというような特別なことでも、むずかしいことでもない。ほんの少しの気持ちでできることだ。
来年もまた、僕たちは京都の街を歩くだろう。「Patagonia Says No Nukes Go Renewable」の横断幕を掲げて、デモに参加できない多くの思いの代弁者として。