『ダートバッグ:フレッド・ベッキーの伝説』ついに公開
ことのすべてのはじまりは、きっと読んではもらえないだろうと思いながら自筆で手紙を書いたとき。まさか返事をもらえるとは考えてもみなかった。
まずは、住所があるかどうかも定かではない男のそれを探さねばならなかった。
僕はずっと自分が愛するスポーツの先駆者たちに興味を抱いていた。地図はあやふやで装備も重かった時代に、未知の領域に僕らを招く道を開拓した真の探検者たち。ドキュメンタリー映画の制作者として僕はたびたび思いを馳せていた――頑強さにおいては比類のないこれらの男性と女性は、完璧な映画の主人公なのではないかと。
10年以上前、僕はフレッド・ベッキーについての記事を読んだ。そこには彼がディック・バリモアのスキー映画をアメリカ北西部で宣伝して、小遣い稼ぎをしていたと書かれていた。僕はフレッドに興味をそそられた。クライマーとしてベッキーほど神秘的な存在はいない。登攀ルートを綴った秘密の本、誰よりも多くの初登数、永遠の独り身、そしてアメリカの元祖ダートバッグ等々……。彼についての噂は渦巻いていた。過去の映画プロジェクトでバリモアと知り合いだった僕は、ドキュメンタリーのネタとしてフレッドはどうだろうと彼に尋ねてみた。彼は笑って「その映画を作ってもらうためだったら金を払ってもいい」と言い、フレッドの住所をくれた。
数か月後に電話が鳴ったとき、僕は手紙のことはほとんど忘れかけていた。低いうめき声が「ベッキーだ。ユタにスキーに行くからそこで会ってもいいが」と言った。
僕は仰天した! ユタへの6時間のドライブのあと、フレッドと接触する前に少し滑ろうとアルタに直行した。リフトに向かって滑っていると、雪の上に散らばったスキー、ストック、そしてなげやりにギアが詰められたバックパックのあいだを縫って滑らなければならない場面に出くわした。そして突如として、それがスキーの準備をしているフレッド・ベッキー自身であることに気付いた。
僕はおそるおそる自己紹介した。ついに僕のクライミングの英雄と会えることに興奮しながら。彼は上目で僕を見て唸った。「いまは君と話したくない。忙しいのが分からないのか? あとで電話してくれ」
第一印象は……まあ忘れよう! 意思をくじかれながらも決意を新たにし、僕はひとりでスキーをした。それから2日間にわたって13の電話メッセージを残したが、フレッドからは音沙汰がなかった。チャンスを逃したことに落胆しながらコロラドに戻ろうと車を温めていると、電話が鳴った。フレッドだった。
「スキーがよすぎて電話する暇がなかった。ドーナツはどうか?」
僕はフレッドと落ち合うと、食堂のまずいコーヒーを囲みながら、彼の人生を記録しておくことの重要性について説いた。僕の映画制作の頭はアイデアで渦めいていた。
「そんなこと誰も気にしちゃいない。大切じゃない」と彼は退けるようにつぶやいたが、それから彼の目が輝いた。「いつかクライミングに行こうぜ」
そうして僕らはクライミングに行くことになった。その翌年カメラがオンになるまでに、何度も一緒にロープを結んだ。ドキュメンタリーの主人公になる前にフレッドは僕の友人となり、クライミングのパートナーとなった。
2度の中国遠征、無数のロードトリップ、何百時間もの映像を撮影して10年以上が過ぎた。その間、フレッドがしかめっ面をしながら「フィルムを無駄にするな。何でこんなものを撮影しているんだ? 誰も気に止めやしない!」と何度言ったかは数えきれない。
過去10年で多くのことが起きた。この映画のためにインタビューした数々の象徴的な人物と同じように、バリモアは逝去した。そしてフレッドは、彼の信じ難い人生の物語を多くの人が欲している現実を認めるようになった。変わっていないことはひとつ。それはフレッドがまだ登りつづけていること!
編集後記:このストーリーは2016年9月にパタゴニアの「クリーネストライン」に投稿されたものです。
フレッド・ベッキーはアメリカの元祖ダートバッグの登山家。歴史的な初登と雄弁な本によって何世代ものクライマーを刺激してきたこの反逆的なアスリートの画期的な人生の物語を綴った、『ダートバッグ:フレッド・ベッキーの伝説』の上映ツアーをパタゴニア直営店を