無形資産
風が岩壁の上から雪の波を吹き落とし、すでに霜で 覆われた岩面にもう一層の滑りやすい雪しぶきを被せた。 俺は雪をかわすために頭を下げ、凍ったフィンガーロック に挟み込んだ血と雪にまみれた自分の指を見た。
指は実際そこにあるのだが、感覚はほぼ1日中まったくなかった。足の指は窮屈なクライミングシューズのなかでとっくに肉の塊と化している。相棒のスタンリーはダウン・ジャケットを何枚も重ね着し、ビレイ地点でうずくまっていた。おそらく、俺なんかに出会うんじゃなかったと後悔しながら。ジョン・ディッキーは右数メートルの空中でフィックスロープにぶら下がり、半狂乱でカメラを雪から守ろうとしている。いったいどうしてこんな愚かしい状況に陥ったのだろうか。
目標。俺は自分のことはあまり深刻に考えないようにしている。だが、クライミングとなると話は別だ。ましてやそのシーズンの目標を掲げるときは、徹底的に深刻だ。もしクライミングが大衆向けのプロスポーツだったら、俺はスポーツニュースのアナウンサーが「無形資産をもつアスリート」として話題にする男となっていただろう。じつのところそれは、「才能に欠けて脳みそは小さいものの、適度なやる気と粘り強さでなんとかやってのけるヤツ」のしゃれた言い方にすぎないのだが。クライミングの目標はあくまで任意であり、成功に結びつく名誉も富もともなわない。キム・カーダシアンの宝石の方がアレックス・オノルドの全功績よりも価値があり、世界一有名なクライマーでさえ、インスタグラムのフォロワー数はNFL の平凡なキッカーにも及ばない。
しかしそのおかげで、クライミングの目標は複雑な外部の要因が絡まない純粋なものとなる。
賢明な決断を下したか、全力を尽くしたか、という自分の問いに自分で答えればいい。
2016年の夏シーズン、俺はコロラド州ロッキー・マウンテン国立公園のロングス・ピークにある、最難関の3ルート制覇を目標にした。「サーカズム」は標高約3,660メートルにある素晴らしくテクニカルな5.14のアレート。「ザ・ハネムーン・イズ・オーバー」はザ・ダイアモンドが最も誇る中央壁の君主的ルートで、標高3,960 メートル以上に複数の5.13 のピッチを有する。そして強大な「ダン/ウエストベイ・ダイレクト(DWD)」には、高山のロッククライミングでは世界最難関のひとつと呼んでも過言ではない80メートルのシングルピッチ、5.14の核心のピッチがある。行程8キロのアプローチと変わりやすい山の天気、ダイアモンドにはおなじみの浸水、そして俺がこれまでの生涯で登った5.14aは片手で数えられるほどしかないという事実を踏まえると、控えめに言ってもかなり野心的な目標だった。
幸い、運動能力にごまかしのきかないボルダリングのハードな課題やスポーツクライミングのルートとは異なり、山のビッグルートには弱点がある。必死の努力と知恵を駆使すればなんとか出し抜ける。十分な時間と思考をつぎ込めば、成功の機会は高くなる。この点を念頭に入れて、俺はバンシーのような悲鳴を上げながらトレーニングを重ね、食事に注意し、高度順化のためにできるだけロングス・ピークに登っては夜を過ごした。2 歳の娘にクッキーが欲しいかと聞かれても、「要らないよ、ありがとう」とていねいに断った。午前3時に起きだしてルートまで歩いて行くのが日課となり、家に戻るとベッドによろめき倒れる代わりに、ガレージに直行してさらなるトレーニングに励んだ。
最初はうまくいった。「サーカズム」と「ザ・ハネ ムーン・イズ・オーバー」は比較的早く終わった。しかし「DWD」は訳が違った。夏はだらだらとつづき、体もくたびれてきた。木の葉が色づきはじめても、まだ失敗の連続だった。しかも無様に。核心のピッチには無数の細かい攻略法があり、どれも俺の限界に近かった。右手を動かす前に左手を動かすとか、フットホールドのごく小さな突起を間違って選んだらすべてがご破算とか。
重い足取りで家に帰り、次の好天期を待ちながらトレーニングをつづけ、ビレイを引き受けてくれる仲間を探す。ふたたび挑戦し、ふたたび失敗し、またそれらを繰り返す。9月上旬になり、前から予定していた ヨーロッパ旅行のためにコロラドを離れると、ワンシーズンで3ルート制覇という目標はあきらめざるを得なくなった。
ヨーロッパ滞在中、コロラドでは山に数回雪が降った。帰ったときは、ノース・チムニー経由でザ・ダイアモンドへ向かう通常のアプローチは、もろい岩のロッククライミングというよりは、むしろアラスカのアルパインルートのように見えた。だが10月10日の天気予報は晴れ、気温は摂氏 5 度前後で、陽のある短い3時間のうちに核心のピッチに挑むのには妥当な状況だった。ヨーロッパ行きで高度順化の効果が薄れていたが、最後にもうひと踏ん張りしたっていいじゃないか。というわけで、友人のスタンリー(かわいそうなヤツ)にビレイを頼んだ。
ノース・チムニーの登攀は最低でも4時間の苦闘になると考え、ルートの上から懸垂下降して核心のピッチに挑むことにした。つまり、ピッチの基部へとダイアモンドを約240メートル懸垂下降するために、標高4,270メートルの頂上付近まで北壁をクライミングしたり、脚を雪に埋めながら歩いたりして登って行くということだ。決して省エネ型の戦略とは言えなかった。
俺たちはまだ暗いうちに北壁に向かって進みはじめた。時折あまりの強風に顔を腕に埋めながら、ゴーグルを持ってくればよかったと悔やんだ。夜明けとともに空が赤く染まると、巨大な雲と雪しぶきがダイアモンドを一掃した。寒かった。この日太陽で岩が温まることはなさそうだった。
「DWD」の核心のピッチはがっしりと分厚く、80 メートルのクライミングを要し た。これは俺がそれまでに挑んだなかで最長のシングルピッチだ。最難関は後半40メートルに集中している。半分登ったところに手の要らないチムニーがあり、適切なレストポイントになっている。俺はレッジからレッジへの優美な登攀を目指していて、ここでのビレイは考慮していなかった。だがこの日は手足にまったく感覚がなく、そんな状態で最もハードなムーブの数々に挑めば確実に失敗することは明らかだった。ピッチの前半には氷やベルグラが無数にあり、その場で新たな攻略を練り出すことを強いられる。いつもの何倍ものエネルギーを消耗するだろう。悔しかったが、そのチムニーで止まってビレイポイントを設置すると、間もなくスタンリーも追いついた。
それから手と足の指の感覚がほぼ皆無のまま、40メートルの無情なクライミングに取りついた。それまでに攻略法は頭のなかで何度も復習し、あとはそれを遂行するだけだった。ところが四肢は体から離れた物体のように感じられ、クライミングという行為はぎくしゃくした不安定な機械の操作のように思えた。脳が腕や脚のレバーを引き上げ、機械仕掛けの腕が意図された箇所にガクンと止まるのを見る。指やクライミングシューズが適切に配置されていることを目視検査したら、「引っ張る」または「立つ」のボタンを押し、あとは最善の結果を期待する。小さなムーブを 延々と繰り返しながらもこの貧弱な機械はなんとか機能し、約 1 時間後、はじめてフォールすることなくビレイ地点にたどり着いた。
かかとをクライミングシューズから出し、手をジャケットに埋めた。指の血管にふたたび血が流れはじめるとあまりの痛さに顔がしかんだ。そして痛みが治まると、次に待ち受ける難題を自覚した。ルートの最後となる長い 5.13のピッチと5.12のピッチ。天候は悪化し、雲の合間からわずかに差し込んでいた太陽はとっくに消え、東向きのダイアモンドは冬の影にすっぽりと包まれていた。風はますます強くなり、さらに上へ登っていくと雪が壁の上から激しく落ちてきた。スタンリーとディッキーは俺とともに処罰の波と戦いながら苦痛を耐え忍んだ。
遅々たるペースでホールドから雪を払い、凍ったクラックのまわりに登れそうな箇所を探る。急速に消耗していく電池を可能なかぎり節約し、細心の注意を払って腕の機械を操作しながら、なんとかフリークライミングしていった。
そしてついに、俺は壁の頂の雪庇に這い上がった。寒さに震え、疲れきっていた。ルートは制覇したものの、すぐに核心のピッチの中間ビレイ地点のことが頭をよぎった。理想的な登攀ではなく、目標は本当の意味で達成されたとは言えな かった。来年また戻ってくる必要がある。だがこの瞬間、俺は自分自身に問いかけた(スポーツニュースのアナウンサーに問われることはないからだ)。かつてないほど奮闘したか? すべての「無形資産」をこの課題に使ったか? 全力を尽くしたか? 差し当たり、答えはどれもイエスだった。
このストーリーの初出はパタゴニアの2017年Springカタログです。